「ふるさと」トリヴィア

 中世の教養科目(リベラル・アーツ)は文法、修辞学、論理学から成る初級の3科 trivium(複数形はtrivia)と、算術、天文学幾何学音楽学の上級4科 quadriviumで構成されていました。そこからトリヴィア(trivia)は「初歩的でつまらない」という意味になったようです。数学のテキストでは証明するまでもなく、自明なことをtrivialと言います。これが「トリヴィア」についてのトリヴィアです。

 そこで、次のトリヴィア。「故」とは、ふるい、むかしの「故事」、「故実」を意味しています。さらに、「故郷」や、「故障」、「事故」も意味しています。「故意」、「故人」といった意味もあります。よく使われる「何故」にも登場します。「郷」もふるさと、生まれたところのことですから、「故郷」がふるさとを意味していることはtrivial(自明)です。

 「故郷」(こきょう、原題:故鄕)は魯迅の代表作ともいえる短編小説の一つですが、「ふるさと」を訳すと、Hometown、Pueblo natal、Ville natale、Heimatなどとなります。中国語だと、故乡;自己生长的土地(自分の生まれ育った土地、one’s native land)です。さらに、英語にはbirthplace; homeland; home; a place dear to one's heart; one's spiritual homeなどがあります。

 故郷(こきょう)は「生家、生まれた土地、生まれ故郷」から「自分の土地、子供時代を過ごした場所」へと広がり、「記憶の中の生れた環境、私の生まれ育った分脈」などへと拡散していきます。こんな字句の詮索をしていても何もわかりません。「ふるさと」はとても厄介な概念で、それに対して民俗学の貢献など何とも物足りないのです。

 「婿をもらった一人娘や、隣の家に嫁に行った娘はどんなふるさと観をもつのか」という問いは一見興味深い問いに思えるのですが、生れ故郷に暮らし続けることはふるさとを考える上で重要なのかどうかもはっきりしないのです。

 カリーニングラード州はロシアの飛び地。ロシアのウクライナ侵攻で有名になりましたが、ここはかつてのドイツ騎士団領で、19世紀にドイツを統一に導いたプロイセン王国揺籃の地です。同名の州都はかつてケーニヒスベルク(Königsberg、ドイツ語で「王の山」)と呼ばれ、哲学者カントが終生一歩も出なかった都市で、プロイセン公国プロイセン王国の首都でした。故郷を一歩も出なかったカントは偏狭な精神の持ち主とは程遠く、物質、精神、世界について哲学的な思いを巡らしました。上記の問いに「重要ではない」と解答する一例がカントなのです。

 人生とは旅人のようなものだと力説したのが芭蕉で、彼はカントと違って旅を重視しました。『おくのほそ道』の序文は「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。」で、旅こそが人生であると述べています。

 カントと芭蕉に「あなたにとって旅とは何か、ふるさととは何か」と尋ねてみたくなります。人生が旅であることを認めれば、旅に出ることがふるさとを出ることに繋がっています。旅に出なかったカントでも彼なりの心の旅をしていたのであれば、それは芭蕉の心身の旅と重なることになります。

 

 次は「ふるさと」の漢字表記についてです。「ふるさと」を漢字で書くと「古里」なのだそうです。私などは「ふるさと」は「故郷」だと思うのですが、近年は新聞の影響で「古里」が多くなっています。でも、辞書をみると「ふるさと」は「古里・故里・故郷」となっていて、どれでもよさそうに見えます。

 では、なぜ「ふるさと」は新聞では「古里」と表記されるのでしょうか。新聞の表記は常用漢字表内の漢字(表内字)を音訓の範囲内(表内音訓)で表記すると決めています。「故郷」の字はいずれも表内字ですから、使用に問題はありませんが、「ふるさと」と読むと、表内音訓での表記から外れてしまいます。ほかに漢字表の付表で、「父さん」や「息子」などのように当て字や熟字訓など、特に使用することが認められているものもありますが、その中でも故郷を「ふるさと」と読むことを認めていません。従って、あくまで故郷は「こきょう」なのです。

 1914(大正3)年の『尋常小学唱歌6』に収録されたのが高野辰之作詞、岡野貞一作曲の文部省唱歌「故郷」です。この曲のタイトルは、「故郷」と書いて「ふるさと」と読みます。そのためか、私には「ふるさと」は「故郷」で、「古里」ではないのです。でも、上記の理由から新聞は「ふるさと」を「故郷」とは書かず、「古里」と書きます。

 常用漢字表では「故」に「ふる」という読みが無く、「郷」にも「さと」という読みが無いため、「故郷」を「ふるさと」と読むのは、常用漢字表に従う限りできません。一方、「古」、「里」は、常用漢字表に「ふる」、「さと」の読みがあります。それゆえ、新聞では「ふるさと」は「古里」と書くようになったことがわかります。

 『日本国語大辞典』は平安時代から明治中期までに編まれた辞書の中から代表的なものを選んで、その辞書にある漢字表記を示しています。「故郷」の表記は室町時代中期に成立した『文明本節用集』や、江戸時代中期の『書言字考節用集』にあります。一方の「古里」の表記が現れるのは明治になってからです。

 常用漢字表に厳格に従い、認められていない読み方ができないなら、「為替」は使えず、「梅雨」は「つゆ」とは読めないことになります。他にも、「美味しい」、「景色」、「曲者」、「許嫁」、「従兄弟」、「意気地なし」、「脚気」、「牡蠣」など…。そして、「秋刀魚」も。

 そのためか、漢字表記をやめて、ひらがなの「ふるさと」に統一した使用例が「ふるさと」納税です。役所は総じてひらがなの「ふるさと」を使っているようです。

 

 信濃俳人となれば、小林一茶ですが、彼の「ふるさと」観の変遷は現代人にも通じるもので、庶民のふるさと観の典型例と言えます。

 一茶はまだ江戸にいた寛政6年にふるさとへの熱き思いを表現しています。

 初夢に 古里(故郷)を見て 涙かな

 一茶48歳の文化7年にはふるさとの身内との諍いにすっかり参ってしまいます。

 故郷(古里)や よるもさわるも 茨の花

 でも、2年後の文化9年には観念し、大悟した様子が窺えます。

 是がまあ つひの栖か 雪五尺

これら三句から、一茶のふるさと観が伝わってきます。ふるさとはあこがれの地であり、面倒ないざこざだらけの地であり、そして終には骨を埋める終焉の地でもあるのです。

 私たちが抱く「ふるさと」観に含まれる基本的な三つの特徴を一茶は経年的に見事に表現しています。夢、現実、諦念とも呼べるようなふるさとへの思い入れが表現され、正に生活の中の「ふるさと」が巧みに切り取られているのです。

*一茶の句でも「故郷」、「古里」の表記のどちらも使われているようです。俳句では「ふるさと」、「古里」、「故郷」のどれもが使われています。

  信濃国柏原は今の信濃町柏原ですが、そこに生まれた一茶はいつも孤独でした。3歳で実母を失い、代わりにやってきた継母とはうまくいかず、15歳で柏原の生家を追われ、江戸で奉公することになります。一茶は52歳になって、ようやく妻や子どもと一緒に暮らすことになりました。でも、その幸せも束の間、あいつぐ妻子との死別により、独りぼっちになります。ふるさとからも家からも閉め出された形の一茶の孤独は、現代人のもつ孤独とよく似ています。

 柏原は門徒の多い土地柄でした。一茶の家も代々真宗門徒で、両親も敬虔な門徒でした。親鸞が説く「自然法爾(じねんほうに)」は「あるがまま」を肯定することで、人為を超えた阿弥陀仏の力に一切の救済を任せ、他力本願で生きていくことです。門徒としての一茶の句には親鸞の他力本願の教えが色濃く滲み出ています。